西国三番札所  風猛山  粉河寺

粉河寺の歴史 和歌山県北部を流れる紀ノ川中流の北岸に、宝亀元年(770)大伴孔子古によって開創され、風猛山粉河寺と称する。 鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北共四キロ余りの広大な境内地があり、寺領四万余石を有していたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱にあい、 偉容を誇った堂塔伽藍も焼土と化し、多くの寺宝が殆ど焼失した。その後、紀州徳川家の保護や信徒の寄進によって徳川時代の中期に現在の諸堂が完成した。

和歌山県紀ノ川市2787
地図参照ください

大門

(重要文化財)江戸時代 規模の大きい三間桜門で、和歌山県では、高野山、根来寺に次ぐ威容を誇る。 宝永四年(1706)の建立。金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。 建立当時の形態もよく保たれており良質の欅ケヤキ材を用いた雄大な江戸中期の建築として優れている。

童男堂

童男堂は正堂と礼堂よりなり、桁行三間、梁間三間の正方形の建物の前面に桁行五間、梁間三間の礼堂を幅一間の合の間を挟んで建てられている。 江戸時代の廟建築を模しており、正堂と礼堂とよりなり、正堂内陣の小壁・板壁の障壁画や、天井絵は華麗で優れた作風を示している。 延宝七年(1679)の建立。当時本尊千手観音の化身、童男大士(童男行者)を祀る。例年十二月十八日、一年一度の開帳法要が営まれる。

仏足石

文久三年(1863)の作  釈迦の足形を石面に刻んだもので、その大きさは偉大な人徳を象徴している。 紋様は釈迦の三十二好相の一つ”千幅輪相”である。後方の石碑は江戸時代の傑僧願海上人の筆である。

出現池

本尊千手観音の化身 童男大士(童男行者ともいう)が柳の枝を手に白馬に乗ってこの池より出現したと伝えられる。

カン漱盤(荷葉鉢)

かつて江戸時代に全国に知られた粉河鋳物の代表的作品技術的にもすぐれ、以後2百年余、はたらきつづけている

中門

(重要文化財)江戸時代 三間一戸の桜門として標準的な規模をもち軒まわりまで繊細な建物に仕上げている。天保三年(1832)の建立で四天王を祀る。「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主、治宝候の直筆である。
     

本堂

(重要文化財)江戸時代  八世紀(770)の創建以来、数度の造営と改造を繰り返し、現存の当本堂は享年五年(1720)に再建された。江戸時代中期の代表的建築で、西国三十三ヶ所の中では最大である。 他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式である。

粉河寺庭園(桃山時代)

本堂の前庭とその下の広場との高低差を処理する土留めとして、又、その広場から雄大な本堂を仰ぎ見る前景として築かれた石組で、日本庭園の中でも先例のない様式である。 桃山時代の枯山水の石庭で本堂前の左右の崖地に築庭され、日本の庭園の中でも先例のない様式である。その上、巨石を十分にかつ自由に扱いこなし、全く豪快な造形を呈している。 枯山水庭園の珍しい形態を持った名園で、用いた紀州石は雑賀崎の青石(緑泥片岩)、琴浦の紫石(紅簾片岩)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)の名石を用いている。

きょ木地の大楠

周囲八m 高さ31m